想いでのハーフカメラ

こんにちは。

皆さんは、ハーフカメラをご存じですか? フィルム1枚で2枚の写真を撮ることができるカメラです。

今どきは、みなさんスマホで写真を撮るのが一般になってますよね・・・。

 

半世紀近く前の話になるのですが、私の父がハーフカメラを買って持っていました。

それで、家族写真とか、季節の花々とかを撮るのが父の楽しみの一つでした。

といっても、白黒写真なので、結構微妙でしたが(笑)

 

実は、私は父が戦争から帰って来てから生まれた子供です。驚きですよね。

母も相当、高齢出産で大変だったと思います。

知らない人から見ると、父母と私は、爺様と孫のように見えたと思います。

父は戦争について、一切語りませんでした。私も子供なりに気を使い聞きませんでしたが・・・。

私が小学生低学年の頃は、雷などがあると、家がしょっちゅう停電していました。

そうなると、私の出番です。

食卓に蝋燭をツケて、新聞紙を丸め「空襲警報~、空襲警報~」と叫ぶと家族全員が笑う、ということが恒例行事になっていました。

父も大笑いしていました。

私が、小学6年生になった頃、父は病院にいました。母は2年位前から病院に寝泊まりし、ずっと父を看病していました。私も、時々父の見舞いに電車で40分位かかる病院まで行っていました。

それから暫くしたある日、父が退院して家に帰ってくると言う話を聞いて、私は大喜びしました。とても優しい父でしたから。

当日兄が、車で父を病院から連れてきました。父が横になったまま乗れるような車を借りて、ゆっくり、揺れないように連れてきたとのことでした。

父が帰ってくると、喜び勇んで、早速父がいる部屋へ行きました。

父は、やせ細り、ほとんど真っ黒でまるでミイラに近い状態でした。

私は、父の死が迫っていることを悟りました。

私は、父と二言三言、他愛もない話をして部屋を出ました。

次の日の朝、別の部屋で私が起きると、父は隣の部屋で既に亡くなっていたようすでした。

家の人は、その部屋には入らず学校へ行くようにと私を促しました。小さい子供には耐えられないと思ったのでしょう。

私は普段のように学校へ、行きましたが、こころは重く沈んでいました。

私には兄弟が5人おり、長男と次男は父が戦争に行く前に生まれました。

長女、3男、4男の私が父が戦争から戻っての子供です。

なので、兄弟の多さで気が紛れて助かったのを覚えています。

 

私の目の前に、父と私が庭で撮った写真があります。

父が小学生の私の脇の下をくすぐって、二人とも大笑いしている写真です。

多分兄が撮ったのでしょう。

 

この写真もハーフカメラで撮ったものです。

ハーフカメラは暫く私が持っていましたが、昔のカメラなのでフィルムの存在も不確かになり、いまでは行方がわからなくなりました。

 

しかし、父が元気な頃、二人で大笑いして撮った写真が、今でも私は大好きです。

 

最近、ハーフカメラを見つけました。

全然手入れをしてなかったので、カメラ専門店で分解掃除が必要になるかもしれません。

対応するフィルムを探すのは大変かもしれませんが、時を超えて、もう一度懐かしのハーフカメラで味のある写真を撮りたいものです。